ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で戦う日本代表「侍ジャパン」。東日本大震災の発生から12年となった11日のチェコ戦は、岩手県陸前高田市出身の佐々木朗希(21)が先発する。3・11は、津波に父や祖父母らを奪われた「特別な日」。支えられる立場から夢や希望を与える立場となった〝令和の怪物〟は、生まれ育った三陸の港町への思いを胸に世界の舞台に立つ。
«高田から世界へ!»《ファイト!!岩手の希望です!》-。陸前高田市のショッピングモールの一角に置かれた応援旗は、佐々木への寄せ書きで埋め尽くされていた。応援旗は隣の大船渡市でも用意され、両市で11日に予定されているWBCのパブリックビューイングの会場に掲げられるという。
3人兄弟の次男。3歳上の兄の背中を追いかけ、小学3年の時、高田野球スポーツ少年団に入った。「負けず嫌いで、けんかなんかもよくしていたな」。当時監督だった村上知幸さん(52)は懐かしむ。
入団から1年もたたず、当たり前の日常を奪い去ったのが、東日本大震災だった。津波に自宅が流され、父、功太さん=当時(37)=と祖父母を失った。子煩悩で温厚だった父。「朗希はプロになる」。そう周囲に話していた。
野球を楽しんだグラウンド、父とキャッチボールをした公園、通っていた小学校…。思い出が詰まった景色も様変わりした。村上さんは「野球に夢中になっている間だけは、つらい現実を忘れられた。朗希もきっとそうだったと思う」と寄り添う。
仲間と切磋琢磨
被災後間もなく、母方の親族が暮らす大船渡市に移り住み、がれきが残る空き地で白球を追った。進学した中学の校庭にも仮設住宅が建ち、その隣で練習に打ち込んだ。
私立の強豪校からの誘いもあった中、選んだのは地元の県立大船渡高。佐々木には「地元の仲間と甲子園に行きたい」という夢があった。被災した故郷で苦楽をともにし、切磋琢磨(せっさたくま)した仲間と離れたくなかった。佐々木の呼びかけで入学した球児も少なくなかった。当時を知る人たちは「仲間内では親分肌。監督のような存在だった」と話す。
高校3年の春、高校野球史上最速の球速163キロをマークし、一躍脚光を浴びた。最後の夏は県大会決勝まで進み、念願の甲子園まであと1勝。だが、連投が続いた佐々木は試合に出ることなく、悔し涙をのんだ。それでも、「朗希が夢を見させてくれた」と故郷の人は温かかった。
消えない悲しみ
プロ入り後、佐々木は折に触れ、震災への、故郷への思いを語るようになった。記憶を風化させてはいけない、そんな気持ちが口をついて出る。
「3月11日は毎年、特別な日。試合でたくさん投げて勇気や希望を届けることができるように頑張りたい」。震災から10年がたった令和3年3月11日には、こう誓いを立てた。
1年後にも、胸の内を吐露した。「11年たったが、その時のつらさや悲しみはなかなか消えない。こうして野球に打ち込めているのはたくさんの支えがあったから。支えてもらった人には感謝しかない」
オフシーズンには帰郷し、高校時代の仲間とトレーニングで汗を流す。遠目で見守る人たちは「あんなすごい選手になっても帰ってきてくれる。その心意気がうれしい」と口をそろえる。一方の佐々木も、家族に「地元の応援がうれしい」と語っているという。
「おらほ(私たち)の朗希」が世界に挑むWBC。父とも親交があり、佐々木が今も訪れる陸前高田市の中華料理店店主、長田正広さん(57)が言う。
「震災から12年。復興に向かう被災地にあって、3・11に朗希が投げることは、みんなの希望になる」(末崎慎太郎)
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